
無事退院となりました
先月のブログで入院したことをお話ししておりましたが、無事退院しました。ご心配おかけしました。ちょっと急な入院だったのでバタバタしましたが、病院は加藤先生が滞りなく診療をこなしてくれたおかげでゆっくりできました。
さてじゃあまたこれから仕事をバリバリと、と言いたいところですが、体調が元通りとまでいかずもうしばらく自宅療養となりそうです。また今後もブログで情報連絡して行く予定です。
ちょっと長く書く暇なかったので以前書き溜めていたブログでお茶を濁す、っと
しま産婦人科という名前はここの地名からつけたものであるが、なぜ「しま」をひらがなにしたのかというと「しま産婦人科でほっとする」と言ったキャッチコピーもいいなと少し思っていたから。
だがやはり「し」「ま」は足してもまの棒は上に抜けないので正確でないところにモヤモヤして、結局採用しなかった。
この話でモヤモヤしたのは中学の思い出に同様なことがあったから
漢字試験で「かみの毛」を漢字で書けという問題が出た。その当時育毛剤にカラヤンという商品があってCMで「かみはなが~いともだち」とやっていたからよっしょこりゃサービス問題だと自信満々に解答。しかし後日結果をもらうとバツになってる!
え~なんでと思っていると先生が問題解説する時、「髪という漢字は長いではな~い」とそれは嬉しそうに解説してくれた。
確かによく見ると長ではなく最後の点がないのだ!!
「おまえらCMで騙されたな」悔し~
この苦い記憶があったから使いたくないな~と考えたのだと思う。
そういえばもう一つ漢字にまつわる恥ずかしい話
高校時代せいかくのふいっちという言葉を耳にしてわからないので辞書で引くが一向に意味がわからない。どういう意味なんだろうと密かに思い悩んでいた。
ある日の国語の授業で先生が世間ではせっかく結婚しても性格が合わないといった理由で離婚してしまうこともあるといいながら黒板に「性格の不一致」と書いた。
それを見た僕は愕然とした!!
「え、不一致って日本語なの?」
音から入ったからてっきりwhichかと思ってた。どおりで英語辞書見てもでてないわけだ。
人生死ぬまで勉強だな
7月ブログ
蝉がシャーシャー鳴いて夏本番。暑さが凶器になりそうである。
さて7月のブログは・・・と思っていたところ突然ですが少しの間入院することになりまして・・・
病院は通常どおりですのでご心配なく。
僕も退院後はまた通常通り診療する予定ですので宜しくお願いいたします。
思い出のアイランド
今年は遅い梅雨入りだったが、いまのところ地味に降ってる。最近は毎年国内のどこかで大雨,
洪水が起こっていたので、このまま地味な感じで終わって欲しいものである。
コロナ感染も県内はいまのところ落ち着いてきていて立ち合い分娩、マムクラブも安定して開催できているのでみなさんにも喜ばれていてホッとする。もう少ししたら妊婦健診とかの付き添いとかも戻したいが・・・もうちょっと様子を見ながらそろりそろりと戻します。
最近、地元紙などで神原小学校の冒険島が解体されると聞いた。
知った時の率直な気持ちは「あ〜、ついにか」である。
思い起こせば自分が小学校に入学した時には既にあって(1967年建設だそうで生まれる前からあったのか・・・)正面玄関前に聳え立つ姿とその存在感はなかなかのものである。市内でももうこんな大きな設備はなかったんじゃないだろうか。
卒業後も学校前を通る時は「あ、あるな」って感じでそこにあることが当たり前みたいだったが、その後も大学に入り、医師になりと県外へ出たあとも時々前を通ると、やっぱり全く変わらない姿でずっとあるので毎回「ええ!まだあるんだ」と思っていた。
なにせ僕の卒業アルバムの集合写真は冒険島の前で撮っているが全然変わっていない!
老朽化もしていただろうに変わらないにも程がある。(いやいや丁寧に使ってきたということか)
自分の小学校時代の学校での思い出は冒険島にあると言っても過言ではない。教室の思い出より冒険島のことの方が鮮明に覚えている(ちゃんと勉強してたのか?)
卒業以来島内に入っていないが冒険島のどこに何があるかは大体覚えている。
島の中は小学生にはかなり広かったのでこのエリア内限定で鬼ごっこしたり助け鬼したりで走り回った。というのも島だけあって中央が盛り上がっていて見通しが効かないのが逆によかったし回遊もしやすかった。
四隅の大きな土管の中に隠れ隙を見て土管を渡り歩く。正門側の木のところでくるっと回って身をかわす。半分埋め込んだ古タイヤの上を渡り、滑り台横の階段を駆け上がり、滑り台が使えるなら滑りたいが、大概詰まっていたし下から登ってくる子が当たり前にいたので(今やっちゃダメですよ〜)その時は横の吊り橋を渡って反対側の塔から一気に飛び降りる。(やっちゃダメですよ〜)
吊り橋のサビで手を真っ赤にしながら真冬でもみんな半ズボン(その当時はそれ一択で長ズボンでも履こうもんならカッコつけてるとか言われたもんだ)で走り回ってたなあ。
跡地は体育館になるそうだがともかくお疲れ様でした。冒険島は、解体されてもみんなの記憶にはずっと残ると思うな。
4月に書くべきブログ
はっと気がつくと5月ももう後半。あれ?ブログまだ書いてなかった。
そういえば先月は新年度で病院も9周年だったが結局今年も宴会はコロナで流れてしまい盛り上がりには欠ける。来年こそは開院10周年になるので盛大に・・・(できるといいな〜)
そしてさらにそういえば僕はこの4月で医師になって30周年だった。(先月は急に「名前」についての話を思い立って勢いで書いて失念していたのである)
まあ、30年経ったからといって自分が急に変わるわけでもなし、これまで色々積み重ねてきた通過点というだけなのでそんなに驚いたり感動するわけでもないなあ。
そもそもなんで産婦人科医になったか。
かっこいいきっかけでもあれば良いのだが・・・実はない。(今の医師になっていく人たちにはしっかりした動機があったりしてすごいと思う)
ただし、親とかから医師になれと言われたわけでもない。父親からは「医者とかなるなよ、特に産婦人科はぶちエライからやめた方がええぞ」と言われ続けたが、なぜか医学部を受けていた。何科になるかも手術は好きなので外科系になりたいと思ってはいたが産婦人科になったのもなんとなくだった気がする。(そんなことでいいのか!)
やりがいとか面白さはいろいろ大変な目に遭いながら徐々についてきたところはあるが今は産婦人科でよかったと思っている。
そして宇部に帰ってきて良かったなって思う。いろいろ苦労して得た経験、知識、技術を宇部で還元できるのは嬉しい。
ちょっと帰れないかもしれないと思った時期もあったが、偶然継承のお話しをいただいてからとんとん拍子に決まった。その後宇部周辺の開業医もどんどん減ってきてしまい、今はうちを入れて2軒のみ。その意味でも帰ってきていてよかった。
上手くいえないけど30年も経つと診療がどんどん自然体になっていく。(病気もしてるので無理をしないってのもあると思うけど)医療していると言うより市内に数多くある色々な仕事の一つであり、宇部市民の日常生活の一部に産婦人科が溶け込んでいる感じがしてとても良い。
患者さんとの年齢差はだんだん大きくなり、どんどん子供たちの歳に近くなっており、自分の娘を診察するようである。(そこまででもないが頑張っている姿を見ると応援してあげたくなる気持ちは親心に近いかな)
でも患者さんとは対等と思っているから下に見るような対応はしたくないので同じ目線での診療は心掛けている。
まあ今後もこんな感じでやっていければいいな。頑張ろうっと。
